アントニオ猪木さん死去 元プロレスラー 国会議員活動も 79歳

プロレスを見ないからよく知らないが、

佐藤優氏の著書でロシア訪問した時の話は面白かったな。

 

相手を知るのに、酒を酌み交わすというのもあるが、

それよりカジノに連れて行って掛けさせた方がその人の本質が見えるという。

合掌

 


フルメタル安藤@nasuno500000000·10月1日
この写真いいな

CDB@初書籍発売中!@C4Dbeginner
東スポにも嘘を書けない日はある

パキスタン政府@PakGovJapanese
伝説の日本人レスラー「アントニオ猪木」さんの訃報を知り、悲しくなりました。 10年前、ラホールのスタジアムで彼に会ったときのことを鮮明に覚えています。彼は類まれなレスリングの腕前で全世代を魅了しました。彼の家族と日本人に哀悼の意を表します。
引用ツイート
Shehbaz Sharif@CMShehbaz
Sad to learn about the passing of legendary Japanese wrestler Antonio Inoki. I have a vivid memory of meeting him at a stadium in Lahore 10 years ago. He mesmerized a whole generation with his rare wrestling prowess. My condolences are with his family & Japanese people.

唐沢なをき@nawokikarasawa
本当に猪木が力道山にこんなこと言われたのかどうか知りませんが(たぶん言われてないと思う)猪木というとまずこれを思い出してしまう。すいませんねえ。

 

露探【円谷猪四郎】@karategin
まあでもチョチシュヴィリより大分長生きしたんだな
引用ツイート
2017年6月12日
ある世代以上のグルジア人には「チョチシュヴィリが倒した日本の英雄アントニオ」の名は今でも記憶されている>チタオバに住むグゼジャニは、異種格闘技戦アントニオ猪木氏(74=参議院議員)に唯一の黒星をつけたミュンヘン五輪金メダリスト、故ショータ・チョチョシビリさん(享年59)の愛弟子 https://twitter.com/Tokyo_dogpillow/status/873474094015979521

真野森作 / 毎日新聞カイロ特派員・元モスクワ特派員@Tokyo_dogpillow·2017年6月10日
7・10ロシア決戦Vへ 石井慧が伝説特訓 - エキサイトニュース
《石井は「実はチョチョシビリがやっていたというジョージアの伝説の特訓を教えてもらいました」と明かした。その特訓とは22リットルもの水が入った巨大な容器を片手で…》 http://excite.co.jp/News/sports_g/20170609/TokyoSports_695435.html

https://www.excite.co.jp/news/article/TokyoSports_695435/

 

パキスタン政府@PakGovJapanese
さようならアントニオ猪木。 あなたはいつも恋しくなります。

丸の内炒飯OL@OKB1917
ね,みんなそう思うよね。力道山が死んだ時に椎名誠が「力道山て死ぬのか?」って思ったみたいな感じ。
引用ツイート
大貫剛🇺🇦🇯🇵З Україною@ohnuki_tsuyoshi
えっつ、アントニオ猪木って亡くなったの?

 

高千穂遙@takachihoharuka
猪木さんがタバスコ広めたみたいな話になっていますが、猪木さんの会社がタバスコの販売権を得たときにはもうふつーに知られていました。なので、それを発表した試合会場で「勝者にはタバスコ1年分を贈呈」とアナウンスされた瞬間「1日1本タバスコ飲むのか」と会場は大爆笑でした。←目撃してます。

 実際に贈呈されたのは目録というか、タバスコの写真が貼られたパネルだったので、1年分が何本だったのかは不明です。ていうか、本当に贈られたのかどうかも不明です。(^^;

 ういうのって「1本贈呈」とか「10本贈呈」と言っても、めちゃせこく見えちゃうじゃないですか。あのタバスコの瓶ですから。でも、「1年分」というと、何か、すごく豪勢に聞こえます。この言い方考えた人、頭いいですね。しかも、みんなタバスコを知っていたので、大受けになるしー。

 

やすみお嬢さま@yasumi_yashiro·10月1日
アントニオ猪木の歴史をザックリひもといてみますわ。まず石炭商の裕福な家庭に生まれますが折のエネルギー転換期に触れ家が没落、新天地のブラジル移民中の船旅で祖父が死に、過酷なコーヒー園での労働に従事。その後港湾の荷下ろしのお仕事をしていたところ、力道山に見い出され日本に帰国しますわ

 そして力道山日本プロレスに入門。まずこの入門までの時点で人生経験が常人と違いますのよ。これが猪木独特の情念の核を形作ったことは明白ですわ。そして力道山宅に住み込み、内弟子という立場に。当時、力道山宅に他に住み込んでいた兄弟子はミツ・ヒライ田中忠治。そこから道場に通う生活ですわ

 しかし本当は練習生として毎日道場に行くべきところを、力道山からの指示ですぐに巡業に帯同させられたそうですわ。ちなみに帰国翌日に力道山の運転する車で道場に初めて行ったそうで、ジャイアント馬場大木金太郎マンモス鈴木と初対面したとのことで、初日の練習はスクワットを立てなくなるまで

 当時の道場のコーチはレフェリーの沖識名、レスラーの大坪清隆、後に国際プロレスの社長となる吉原功だったそうで、大坪は高専柔道出身で投げや関節技、吉原はレスリング出身なのでレスリングを教わったと。猪木の強さのベースである寝技の神がかり的強さは、最初期から培われたものだということですわ

 そして運命の事件、力道山が赤坂のニューラテンクォーターというお店でヤクザの村田勝志に刺された時は、銀座にあるオカマバーのやなぎというお店で飲んだ後に、オカマちゃんたちを連れて青山でボーリングをして遊んでいたそうですわ。そして程なくして力道山が亡くなるのですわ

 ちなみに村田勝志の娘は、2000年代の全日本プロレスで活躍した外国人レスラー太陽ケアと付き合っていたことがあり、後に女子格闘家となりますわ。何だか人の運命というものは数奇なものですわね

  この日本プロレス若手時代にプロレスの神様カール・ゴッチに師事しますのよ。ゴッチはジャーマンスープレックス(相手の胴をクラッチして後ろに反り投げてフォールする技)の元祖であり、イギリスのプロレス道場である蛇の穴流の関節技の当代きっての使い手で、実力世界一とも言われた人物ですわ

 これにより猪木は更なる実力をつけつつ、アメリカ南部へ修行に行き、荒っぽいケンカレスリングのエッセンスを取り込みますのよ。そんな中、アメリカ人女性と結婚し娘が生まれますが、この子を事故で亡くし離婚。しかし壮絶な人生はまだ序章に過ぎないのですわ

 帰国後はジャイアント馬場との二枚看板でトップレスラーの片割れとなりますが、力道山の死後の日本プロレスは重役たちの放漫経営によってレスラーたちの不信感を買い、馬場、猪木らが経営を正そうとするも不穏な動きとして密告され、猪木だけが会社乗っ取りの汚名を着せられて追放されますのよ

 会社側に健全経営を求めたのが1971年11月28日で、12月6日に追放が決まりますの。しかし猪木は不屈。1972年1月13日日には新日本プロレスの会社登記を済ませ、26日には設立を正式発表、道場開きは29日、旗揚げ戦が3月6日という電光石火の素早さ。この時既に燃える闘魂だったとしか言い様がありませんわ

 この頃には倍賞美津子を相手に2度目の結婚をして新婚の時期。ミッコはさぞ辛かったでしょうが、何と新居を明け渡して道場&合宿所にし、弟や母も巻き込んで猪木のサポートをしてしまうのですから大英傑。この夫にしてこの妻という凄まじさ

 ちなみに道場建設を請け負ったのは猪木に帯同したレスラー木戸修の父の会社である木戸工務店。木戸の娘はゴルファーの木戸愛ですわ。そして木戸がレスラーを目指した経緯が凄くて、兄が事故でレスラーの夢を断たれ、その夢を継いでレスラーになったのですわ。静かながら炎の心を持つ男、それが木戸修

 木戸はほぼゴッチに授けられた技術のみで頑なな試合をするいぶし銀の職人レスラーでしたわ。引退後、某団体の要請を受けて約10年の時を経て短期間復活した際には、現役時代とほぼ変わらぬ戦いを見せましたわ。静かながら「引退後も毎日練習は欠かさなかったから」という常在戦場の炎の男、それが木戸修

 ……いけませんわね、正気に戻りますわ。さて新日本プロレスを設立した猪木ですが、日本プロレスの妨害に遭い、著名な外国人レスラーを呼べず、旗揚げ戦にして実は窮地に追い込まれますの。しかし、ある1人のレスラーが猪木の旗揚げ戦の対戦相手として来日しますのよ。……お、漢ですわ~!!!

まだ序盤ですが、今日は一旦これぐらいにしてもよろしくて……? 読み返すと内容が全然ザックリではありませんわね……! でもでも、わたくしのほとばしる熱量に以後もついて来て下さると嬉しいですわ RT、いいねもよければお願いしますわ ではごきげんよう( ᵕᴗᵕ )

これでも、クソヤバプロレスオタクとしての熱量を実はかなり抑えていますのよ。本当は当時の関係者やスポンサーの話も書くつもりでしたが、さすがに話が広がりすぎてしまうのでカットしまくり、しかしどうしても木戸修については書かずにはいられず……!頭を冷やす為にも一旦休憩を……!

 ちなみにわたくしがこのアントニオ猪木ツイートを一旦やめた様に、猪木も実は日プロを一旦辞め、東京プロレスという団体を作って低迷、暴動に遭ってリングに火を放たれ団体崩壊という大失敗し日プロに出戻っていますの。この辺の経緯が複雑ではしょりましたわ。本当はこれぐらいザックリ書きたいですわ

 日プロ→東プロ→日プロ出戻り→日プロ追放→新日本プロレス旗揚げという流れですわ。本当はもっと詳しく書きたいですが、アントニオ猪木の大筋から外れて当時の派閥と各レスラーの人となりについても書き始めそうなので今必死に抑えていましてよ

 テレビ観ていましたらアントンのことがやっていて燃えて来てしまったので、もう休憩終わりにしますわ。一刻も早くより濃い猪木ヒストリーを皆さまに伝えねばなりませんのよわたくしは

 旗揚げの翌年1973年3月30日には元柔道日本一のレスラー坂口征二が合流し、4月6日にNET(現・テレビ朝日)によるテレビ放映開始。坂口は俳優の坂口憲二の父ですわ。憲二の兄の征夫(ゆきお)もまた、人生の紆余曲折を経てレスラーになりましたわね

 そして1973年11月5日にはミッコとお買い物中、新宿伊勢丹前でタイガー・ジェット・シンに襲撃され、大抗争に発展。禍々しく殺伐とした怒りの権化のアントニオ猪木がどんどん出始めると共に、一方で死神ジョニー・パワーズを破りNWF世界王者となり、世界統一構想がスタートしますのよ

 それは乱立するプロレスの世界王座を束ねるという途方もない夢ですわ。これが12月10日で、翌1974年2月13日には国際プロレスのトップレスラーだったストロング小林がフリーとなり猪木、馬場に挑戦状を出し、2月25日に猪木が受諾、3月1日には調印式、そして3月19日に蔵前国技館で激突します

 この試合は力道山vs木村政彦以来20年ぶりの大物日本人対決。力道山は今でこそ朝鮮人だったと明かされていますが、昔は日本人とされていましたので、ここでは当時の状況を尊重してあえて日本人としますわ

 この1戦が日本のプロレスの潮流を1つ変えましたの。それまで対外国人レスラーが常だった日本のプロレス界に大物日本人対決、しかもタイトルマッチ(NWF世界選手権試合)というものが初めて導入されたのですわ。決まり手は猪木のジャーマンスープレックス。これが伝説の一撃ですのよ

 小林を投げ両肩をつけた際、猪木の両足が浮き、一瞬首だけでブリッジを維持する激烈カッコいい異次元のジャーマンスープレックスホールドになりましたのよ。この試合は年間最高試合にも選ばれ、昭和の巌流島決戦と呼ばれたそうですわ。この試合は本当に観て頂きたいですわ~!!!

 1975年10月9日には鉄人ルー・テーズを破り、そしてわたくしが昨夜偶然観ていた人間風車ビル・ロビンソン戦が12月11日ですの。ストロング小林戦、そしてこのロビンソン戦のどちらかを猪木のベストマッチとする識者は多いですわね。ちなみにわたくしはロビンソン戦を推しますわ

 話が前後しますが1974年6月26日にはタイガー・ジェット・シンの度重なる暴挙に大激怒していた猪木はシンの腕を折って勝ち、8月1日には師であり恩人でもあるカール・ゴッチにクリーンファイトで勝っていますわ。殺気とレスリングの二刀流が猪木の本懐であると印象づけられた時代ですわね

 ロビンソン戦に話を戻しますと60分ドローの試合で、当時の世界最高峰のレスリングと関節技による息詰まる技術戦ですわ。ロビンソンはゴッチの弟弟子で、この時代の最強レスラーは誰かという話題になるとゴッチと並び必ず名前が挙がる超実力者ですわ

 どんな状況、体勢でも相手を極めてしまう無限のテクニックはとてつもなく、昔のあるつよつよレスラーに「ロビンソンと本気でスパーしたら僕なんか1分以内に関節を壊されて終わりますよ」と言わしめる程で、こんなロビンソンとガチガチに渡り合う猪木のこれまた伝説の試合も是非とも観て頂きたいですわ

 そして運命の1976年がやって来ますのよ。この年は異種格闘技戦がスタートしましたの。まずは2月6日に日本武道館で柔道金メダリストのウィリエム・ルスカ相手に格闘技世界一決定戦を行い、バックドロップ3連発で勝利しますわ。さらに次戦が6月26日の空前絶後モハメド・アリ戦ですわ~!!!

 この時のアリは取り巻きのアリ軍団を大挙して連れて来ましたの。アリ軍団はメチャクチャで、銭湯の女湯に乱入して写真を撮りまくったり、結婚詐欺を働いたりと傍若無人な振る舞いを繰り返し、今の時代ならば大炎上していたであろう無法集団だったそうですわ

 アリはプロレスを舐めていて、しかもエンタメとしてのエキシビションマッチをやるとたかを括っていましたが、猪木陣営から当然リアルファイトを通達されて面食らい、猪木の公開練習の俊敏さと獰猛さを見てルールについてゴネますの。このルールがひどいものですのよ

 猪木は立っての攻撃禁止、寝技は5秒以内、そしてアリのグローブの中には石膏が注入されていたという話ですわ。これはアリ軍団が進めた暴挙とも言われ、諸説ありますわね。猪木はこのルールの間隙を突いて、スライディングしながらのローキックを編み出し、後にアリキックと呼ばれる様になりますわ

 試合は猪木が寝てアリが立っている状況で終始続き引き分け。この片方が寝て片方が立っている状態を猪木アリ状態と言いまして、総合格闘技の試合でいまだに頻発するガチなポジションなのですわ

  ちなみにこのアリ戦で新日本プロレスは当時の金額で9億円の借金を負い、猪木の殺気に生い立ちだけでないリアルガチなものが加算、もうえもいわれぬ雰囲気が醸成されてゆき、12月12日にはパキスタンで現地の英雄で最強の男アクラム・ペールワンに、目を突いたり腕を折ったりという最凶ファイトで勝利

 勝利の瞬間、暴動が起こる雰囲気になるも、猪木が絶叫しながら両の拳を天に突き上げますの。それはイスラムの神への感謝のポーズであり、偶然の合致により猪木もまたアクラムと並ぶ英雄として崇められ、後の湾岸戦争時に日本人が人質に取られた際に猪木が向かうや人質が解放されたお話に繋がりますわ

 1977年8月2日には全米プロ空手世界ヘビー級王者ザ・モンスターマンを垂直落下の超絶ドライバーからのギロチンドロップでKO勝ち。9月2日には本職のプロレスでラリアットの元祖スタン・ハンセンを、10月25日には映画ロッキーのモデルとなったチャック・ウェップナーを異種格闘技戦で倒しますわ

 12月8日にはグレート・アントニオ戦で相手のでくの坊ぶりにブチギレて顔面を蹴るなどして3分ほどでKO。アクラム戦やアントニオ戦などの殺伐とした試合は後にキラー猪木シリーズとして映像化され、今もわたくしの心をガッチリ掴んで離しませんのよ

 1978年には大巨人アンドレ・ザ・ジャイアント、ニューヨークの帝王ボブ・バックランド、ヨーロッパの地獄の墓堀人ローラン・ボックなど世界をまたにかけたライバルも次々と完全確立し、新日本プロレスの経営は安定。いいえ、違いますわね。どんどん勢いを増して格闘ロマンの道を突き進みますわ~!!!

 1979年8月26日には日本武道館で開催された夢のオールスター戦で永遠のライバルであるジャイアント馬場と8年ぶりのタッグ結成。そしてリング上での最後の接点となりましたわ……!ちなみに馬場は猪木が新日本プロレスを旗揚げした同年に全日本プロレスを旗揚げしており、2人の道は対称的でしたわ

 ハイリスクなイバラの道をひた走りがちな猪木に対し、馬場は業界内での信頼と人脈を築き続けて堅実に王道を歩み、生涯この対比は変わることがありませんでしたわ。この2人の人生と新日全日の離合集散が、日本のプロレスを他国のプロレスと違う異次元世界にしましたわ

 1980年2月27日には極真空手のウイリー・ウイリアムスと激突し引き分け。猪木は肋骨、ウイリーが腕をケガし、以後、異種格闘技戦はしばらく凍結されますわ。そして12月13日にインターナショナル・レスリング・グランプリことIWGP構想を正式に発表します

 これは乱立する世界王座を統一するという、猪木が1972年12月10日に立ち上げた世界統一構想を現実のものとして始めた大計画ですわ。翌1981年4月1日にIWGP実行委員会の発足を正式に発表。世界中のプロレスのチャンピオンを集め、全王座を返上してIWGPに1本化すると発表しマジで動き始めますのよ

 しかし新日本プロレスは2000年代に企業買収されて猪木の手を完全に離れ、ここ数年は猪木のIWGP構想と真逆の王座乱立をしまくっていますのよ。これはアントニオ猪木の魂に泥を塗る行為だとわたくし思いますわ……!悲しみしかありませんのよ……!現在の王座乱立を見て下さいまし……( ᵕ̩̩ㅅᵕ̩̩ )

IWGP世界ヘビー級王座
IWGPタッグ王座
IWGPジュニア王座
IWGPジュニアタッグ王座
NEVER王座
NEVER6人タッグ王座
IWGP USヘビー級王座
NJPWストロング無差別級王座
NJPWストロング無差別級タッグ王座

現在さらにIWGP女子王座まで新設予定ですのよ……
何ですのこれ……
悪夢ですわ……

 わたくし、これを書きたかったのですわ。アントンはIWGP構想以降、年齢的なピークを過ぎ、政治家転身によってリングに上がる回数が減って行きますわ。そして1998年に現役引退、1999年に馬場が亡くなり、2006年に新日本プロレスを失ってからはプロレスとの距離を広げて行きましたわ……

 アントニオ猪木の鎮魂の為にも、彼の夢であったIWGPをもうこれ以上汚さないで下さいまし…… 真の猪木ファン全員の願いのはずですのよ……

 猪木は1980年からアントンハイセルという早すぎたリサイクル事業に手を出してアリ戦の借金に加えて更なる大借金を抱え、佐川急便の佐川会長がその借金を肩代わりし、不倫スキャンダルを起こし、マサ斎藤と巌流島で何故か2時間も戦い、ミッコと離婚し、政治家となり、人質を解放し……

 北朝鮮でプロレスの大会を開いて国交を開かせるもまた大借金し、3度目の結婚をし、新日の隆盛でまた借金を返し、離婚し、謎の永久機関を作ろうとまた湯水の様にお金をつぎ込み、新日を買収されて追い出され、4度目の結婚をし、スポンサーの支援でIGFという団体を作り、妻を亡くし……

 もう人生がムチャクチャでしたのよ。せめて最大の夢であったIWGPを猪木の目指した統一思想に寄せて供養としてほしいのですわ~!!!

 最初と最後だけ何とかザックリ書けましたわね。本当はこの1980年代から2000年代がマジで壮絶すぎるのですが、醜聞と複雑に絡み合っていて今回詳しく書くのは憚れましたのでご容赦下さいまし。ではお付き合い下さりありがとうございました(⁎ᴗ͈ˬᴗ͈⁎)

 ちなみにアントントレーディングという会社も設立し、タバスコ、マテ茶、スペアリブ、ヒマワリナッツ(ヒマワリの種)などの食品飲料品を日本に持ち込んだのも猪木ですわ その多くは現代日本において普及しましたわね ヒマワリの種を貪り食う日本人総ハム太郎化が失敗したことも忘れないで下さいまし

 あとこれは書くか悩みましたがやはり書くことにしますわ 現在の新日本プロレスは猪木を否定して脱ストロングスタイルを掲げ、縁もゆかりもない飛んだり跳ねたりばかりのプロレスばかりする変な団体になってしまいましたわ 何も受け継いでいませんのよ わたくしはそれが悲しく悔しく虚しいですわ……

 アントンは相手の後ろを取って腕を胴に回してクラッチアゴを背中に突き刺すだけで『背中を極める』ことが出来ましたのよ

 

塚本 色夢(Tsukamoto)@tokyo_wander
タバスコとか、ひまわりのタネとか。

 

アントニオ猪木さん死去 元プロレスラー 国会議員活動も 79歳

 おくやみ NHK

日本のプロレス界をけん引し、国会議員としても活動した元プロレスラーのアントニオ猪木さんが、1日朝、心不全のため亡くなりました。79歳でした。

 

 元プロレスラーで、参議院議員を2期務めたアントニオ猪木(アントニオいのき、本名・猪木寛至=いのき・かんじ)さんが1日、自宅で死去した。79歳だった。横浜市出身。難病「全身性アミロイドーシス」で闘病中だった

2、3日前から低血糖で体調を崩し、自宅での療養生活が続いていた。前日持ち直したが、この日の朝、状態が悪化し自宅で息を引き取った。

 

 1943年(昭和18年)生まれ。5歳で父親を亡くし、13歳で家族とともにブラジルへ渡り、コーヒー農場などで働く。現地の陸上競技大会の砲丸投げで優勝した際、ブラジル遠征中だった故力道山さんにスカウトされプロレスの道へ日本プロレス入りし。60年9月30日、プロ野球からプロレスに転向した故ジャイアント馬場さんと同日デビューを果たし、62年からリングネーム「アントニオ猪木」を名乗る。  米国への武者修行、日本プロレスからの離脱、復帰、追放を経て、71年に女優の倍賞美津子と結婚(後に離婚)。72年に新日本プロレスを立ち上げ、その後プロレス全盛時代を築いた。76年6月のボクシング、世界ヘビー級王者・モハメド・アリとの「異種格闘技戦」は注目を浴び、世界中にテレビ中継された。

  政治家としては89年に「スポーツ平和党」を立ち上げ、「国会に卍固め」、「消費税に延髄斬り」をキャッチフレーズに同年の第15回参議院選挙に比例区から出馬し初当選。史上初のレスラー出身の国会議員となった。

 

>>湾岸戦争イラク訪問したし、北朝鮮にもいったな。

猪木さん 今も記憶受け継がれるモハメド・アリさんとの一戦

 訃報 NHK

アントニオ猪木さんは、平成10年に現役を引退するまでプロレスラーとして第一線で活躍しながらボクシングや柔道などの格闘技の試合にも取り組んできました。その中で大きな注目を集めたのが1976年6月26日に東京の日本武道館で行われた、当時プロボクシングのヘビー級チャンピオン モハメド・アリさんとの一戦でした。「格闘技世界一決定戦」として日本を代表するプロレスラーと現役の世界チャンピオンの対戦は大きな注目を集めました。

この試合について猪木さんは2000年に出版した自伝で、「アリさんの頭への攻撃」や「立った状態での蹴り」、「ひじやひざによる攻撃」などを禁止とするよう、試合前日になってアリさん側から求められたことを明らかにしています。

試合は1ラウンド3分の15ラウンド制で、“蝶のように舞い、蜂のように刺す”というフットワークの軽さが持ち味のアリさんに対して、猪木さんは序盤からリングに寝転がってあおむけの状態からアリさんの足元への蹴りを狙っていきました。

そのまま終盤まで、立ったままパンチを狙うアリさんに対して、寝転がったままの猪木さんが足元への蹴りを狙うという展開が続き、互いに決め手を欠いたまま判定で引き分けとなりました。

最終の第15ラウンドまで、両者が立ったまま拳を交えたり技を掛けあったりすることはほとんどなく、こう着状態が続いたこともあり、一部では「世紀の凡戦」とも言われましたが、この試合は猪木さんの名前が海外に広く知れ渡るきっかけにもなりました。

猪木さんは「世界のスーパースターであるモハメド・アリという男と闘うことで、これまで体験したことのない世界を覗いたのだ。人間形成の上でも大きな出来事だった」と自伝の中で振り返っています。

この試合をきっかけに二人の親交も深まり「イノキ、ボンバイエ」の掛け声で知られる猪木さんの試合での登場曲は、アリさんの伝記映画の音楽がベースになっているということです。

また、猪木さんが1995年4月に北朝鮮で行ったプロレスのイベントや、1998年4月の猪木さんの引退試合には、いずれもアリさんが姿を見せました。

アリさんは、2016年6月に亡くなりましたが、格闘技ファンなどは、猪木さんとアリさんの戦い方になぞらえて、1人の選手が立った状態で、もう1人の選手があおむけに寝た状態で対じする様子を「猪木アリ状態」と表現するなど、45年ほどたった今でも当時の記憶が受け継がれています。

 

1. アミロイドーシスとは
アミロイドーシスとは、アミロイドと呼ばれるナイロンに似た線維状の異常蛋白質が全身の様々な臓器に沈着し、機能障害をおこす病気の総称です。複数の臓器にアミロイドが沈着する全身性のもの(全身性アミロイドーシス)と、ある臓器に限局してアミロイドが沈着する限局性のもの(限局性アミロイドーシス)に分けられます。
全身性アミロイドーシスの代表的なものとしては、 免疫グロブリン 性アミロイドーシス(ALアミロイドーシス)、AAアミロイドーシス、透析アミロイドーシス、 家族性 アミロイドポリニューロパチー (FAP) 、老人性全身性アミロイドーシス (SSA) などがあり、このうちALアミロイドーシス、FAP、SSAの3者は、指定難病となっており、医療費の補助が受けられる対象疾患となっています。一方、限局性アミロイドーシスとしては、アルツハイマー病、脳アミロイドアンギオパチー、プリオン病などの脳アミロイドーシスが代表的です。

2. この病気の患者さんはどのくらいいるのですか
それぞれの疾患によって異なります。ALアミロイドーシス、FAP はそれぞれ国内に数百人、AAアミロイドーシスや透析アミロイドーシスについては国内に数千~数万人の患者がいると推測されています。また、脳アミロイドーシスの過半数を占めるアルツハイマー病の患者は国内に約200万人存在するとされており高齢化社会が進む中、今後もその数はさらに増加していくものと考えられています。

3. この病気はどのような人に多いのですか
遺伝性のものと非遺伝性のものの2つに大別されますが、前者の代表的な疾患が FAP です。トランスサイレチンという蛋白質の遺伝子異常を持つ人に生じます。その他、アルツハイマー病やプリオン病にも一部遺伝性のものがあります。一方、多発性骨髄腫を含む免疫グロブリンの異常に合併するALアミロイドーシス、慢性関節リウマチなどの 炎症性疾患 に合併するAAアミロイドーシス、長期人工透析患者に合併する透析アミロイドーシス、加齢に伴い生じる SSA などは非遺伝性のもので、これらの疾患を持つ人や高齢者に生じやすいものです。また、脳アミロイドーシスの代表であるアルツハイマー病も、加齢に伴いその頻度が増加する疾患です。

4. この病気の原因はわかっているのですか
原因となる蛋白質が凝集してアミロイドとして臓器に沈着して発病することがわかっています。しかし、アミロイドが生じる過程は、原因蛋白質の種類によって異なると考えられており、その細かな 機序 については依然不明なままです。

5. この病気ではどのような症状がおきますか
全身性アミロイドーシスでは、心臓の障害(心不全不整脈)、腎臓の障害(ネフローゼ症候群や腎不全)、胃腸の障害、 末梢神経 や自律神経の障害(手足のしびれ、麻痺、立ちくらみ、排尿の異常、便秘、下痢)などがしばしばみられ、舌、甲状腺、肝臓が腫れることもあります。アルツハイマー病では認知症症状が、脳アミロイドアンギオパチーでは脳出血などの脳卒中の症状がみられます。

6. この病気にはどのような治療法がありますか
従来は各々の症状に向けての対症療法が中心でしたが、近年、アミロイドーシスの種類によっては根治的治療法が発展してきたものもあります。FAPに対する肝臓移植やタファミジス(ビンダケル)の投与、ALアミロイドーシスに対する自己 末梢血 幹細胞移植を併用した大量化学療法あるいは新規化学療法薬、AAアミロイドーシスに対する最新の抗リウマチ薬、アルツハイマー病に対するコリンエステラーゼ阻害薬などがその代表例です。

7. この病気はどういう経過をたどるのですか
アミロイドーシスの種類によっても異なります。一部の限局性アミロイドーシスはあまり進行しませんが、多くのタイプ、特に全身性アミロイドーシスの多くは先に述べたような適切な治療を受けなければ、徐々に症状は進行していきます。進行が速い場合は、発病後数年で死に至ることもあります。

8. 患者さんに知って欲しいこと
アミロイドーシスは早期発見、そして治療法の選択につながる種類分けが難しいことから、専門医の診療を必要とする病気です。なるべく早く専門医にご相談下さい。ご参考までに、厚生労働省難治性疾患政策研究事業・アミロイドーシスに関する調査研究班(研究代表者 内木宏延)に所属する研究分担者及び研究協力者で、アミロイドーシスの病型別の専門医のリストをお示しいたします(2021年4月現在)。

「アミロイドーシスに関する調査研究班」のアミロイドーシス病型別専門医リスト2021年4月

9. 次の病名はこの病気の別名又はこの病気に含まれる、あるいは深く関連する病名です。 ただし、これらの病気(病名)であっても医療費助成の対象とならないこともありますので、主治医に相談してください。
該当する病名はありません。

Japan: Antonio Inoki, pro wrestling star turned politician dies

The 79-year-old Antonio Inoki was well-known for his bout against boxing legend Muhammad Ali and ties to North Korea.

Antonio Inoki, known for his outsized chin and trademark tie and red scarf worn throughout the year, won a seat in the upper house of Japan's parliament in 1989

Antonio Inoki, a Japanese professional wrestling star turned politician, died on Saturday, aged 79, according to New Japan Pro-Wrestling, a company he founded.

Inoki was well-known for his bout against boxing legend Muhammad Ali as well as for his ties to North Korea.

"New Japan Pro-Wrestling is deeply saddened at the passing of our founder, Antonio Inoki," the company said on Twitter.

According to the Japanese public broadcaster NHK, he died of heart failure.

Atsushi Onita, another pro wrestler turned politician, paid his tribute on Twitter saying, "Thank you, Inoki-san. The supreme father of pro wrestling."

From professional wrestling to politics

The flamboyant Inoki made global headlines in 1976 for his mixed martial arts match against Ali — called "the bout of the century."

Inoki, known for his outsized chin and trademark tie and red scarf worn throughout the year, won a seat in the upper house of Japan's parliament in 1989.

The following year he traveled to Iraq during the Gulf War and negotiated the release of Japanese hostages.

The former wrestler also built close personal ties to North Korea and traveled there many times to resolve the issue of the Japanese citizens kidnapped during the Cold War by the reclusive nation.

In 1995, he organized a wrestling extravaganza in Pyongyang for more than 100,000 spectators. Japanese officials dismissed his trips as Tokyo had banned travel to North Korea.

ss/sms (AFP, Reuters)

 

 

 

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