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さて、東欧の話をしよう。前近代の言葉は、クアルーン・アラビア語のようなある種の神聖言語を中心とした、いくつかの大域的な記号の共同体に分かれていたことは、先述の通りだ。西欧では、それはラテン語だった。東欧では古代教会スラブ語だった
古代教会スラブ語は南スラブ系の言語だ。おそらくブルガリア語を起源とし、東欧全域で聖典や教会での礼拝に使われるようになった。現代のブルガリア、ルーマニア、モルドバ、ウクライナ、ベラルーシ、ロシアが含まれており、特定の聖なる共同体を形成していた。
聖なる共同体は、理解しがたい難解な言語を中心に構築される。実際、古代教会スラブ語の聖なる共同体はスラブ語やロマンス語、その他の方言の話者を含んでいたとしても、その神聖言語はそれらの方言とは理解しがたいほど異なっていた。
ルーマニア人はプロテスタントではなかったが、トランシルバニア地方のハンガリー人はプロテスタントだった。そのため、ルーマニアの司祭は典礼をスラブ語の神聖言語からロマンス語の方言に変える必要があった。文化的な相互作用は、多くの人が考えるよりずっと複雑だ
ルーマニア正教の地では、方言は神聖言語から最も離れている。 しかし、東スラブ正教の地でも、古代教会スラブ語と方言との距離は大きく、大衆は南スラブの神聖言語を理解できなかった。
古代教会スラヴ語の上に構築された東欧の聖なる共同体の存在は、中世ロシアにおける「ロシア人」の言葉の意味を明らかにするものである。それは民族を指しているのではない。それは宗教を指しているのである。
前近代の聖なる共同体と現代の国家共同体を同列に扱うことは大きな誤りだ。 たとえ同じか似たような名前を持つとしても、それは間違いだ。現代のロシアでは、ロシアという言葉は国家を指す。中世のロシアでは、民族の壁を越えて活動する神聖な共同体を指していた。
ロシアの年代記には、「ロシアの町、近郊の町、遠隔地の町」のリストが含まれている。
1. ブルガリア
2. ワラキア
3. ヴォリン
4. ザレシェ
5. キーウ
6. リトアニア
7. ポドリア
8. リャザン
9. スモレンスク
10. トヴェリ
1374年のリストを視覚化した地図。
トヴェリやリャザンなど、現在では本当に「ロシア」だと思われている地域と、明らかに他国だと思われている地域とが混在している。例えば、これはリトアニアのロシア人街の地図だ。カウナスからモスクワまで、あらゆる民族や言語の境界線を越えて伸びている。
さらに興味深いのは、年代記の「ロシアの町」のリストが、ブルガリアから始まり、ワラキアがその次になっていることである。東スラブの町はその後にきている。これはおそらく、ブルガリアが「ロシア」という神聖な共同体の発祥の地であったことを示唆している。
一方、モスクワや現在の中央ロシアは、モスクワ大公国発祥の地であるが、そこは「ザレシェ(=森の奥)」と記されている。どうやら、モスクワ大公国は北の森の中で新しく植民地化された領土であり、「ロシア」世界の中心ではないと考えられていたようだ。
ここから見えることは何か。ロシアの町の大図鑑も、ロシアの特定地域の地図も、民族性を無視している。ロシアの国土にはロマンス語を話す地域がある。リトアニア地方はバルト語圏と東スラブ語圏の両方を含んでいる。が、誰も気にしない。
年代記の「ロシアの町」の地図は、民族や話し言葉の地図では「ない」。それは、当時「ロシア人」と呼ばれていた古代教会スラブ語の聖なる共同体の地図だ。出自や話し言葉は関係ない。典礼に古代教会スラブ語を使えば「ロシア人」になるのだ。
そしてもちろん、現在のロシアは、聖なる共同体の中心地とは考えられていなかった。このリストでは、中心地はおそらくブルガリアだろう。ブルガリアの町が「ロシアの町」のリストの冒頭にあるからだ。この神聖言語がそこで生まれたのであれば、全く理にかなっている。
中世の書物でウクライナやベラルーシが「ロシア」と呼ばれているから、ロシア国家の一部だ、と言う愚か者がいる。それは単純に間違いだ。中世の「ロシア」の聖なる共同体が、現代のロシアの聖なる国家と同一視されているのである。それは歴史に無関心な者の誤謬だ。
欧米人が中世の聖なる共同体と現代の国民国家を同一視するのは、無知だ。しかし、ロシア人がそれを行う場合、それは政治的な主張だ。かつて古代教会スラブ語の聖なる共同体であったものが、いまやロシアの単一民族国家に変容しなければならないのだから。
聖なる共同体を一元的な国民国家に変えることは、想像以上に難しい。なぜか?なぜなら、聖なる共同体では、神聖言語が膨大な数の話し言葉と共存しているからだ。聖なる共同体は、多様な前近代世界の現象だ。しかし、国民国家は違う。
一元的民族国家は、多様性を許さない。一つの言語を選択し、それを自国の領土全体に押し付け、競合する言語を駆逐するのだ。それが方言分岐の大きな要因であり、統一された基準による集団学校教育によって完成される。
これが、プーシキンが現代のロシアにとって重要であることの説明だ。ロシアはエカテリーナ2世の時代に現在のウクライナとベラルーシを併合した。以来、ロシア政府は、政治、文化、言語の面で、すべての東スラブ地域をロシア標準にならって均質化するよう常に戦ってきた
ロシア政府は、ロシア、ウクライナ、ベラルーシ全土に同じ言語を押し付けようと奮闘した。だが、何を基準にするのかが問題だった。プーシキンが傑出しているのは、彼がこの標準を作り出したからだ。彼の文学的遺産は、国家が広めることのできるモデルを提供したのだ。
プーシキンは、後に国家権力によって押しつけられることになるバージョンのロシア語を作ったという意味で、近代ロシア語を作ったのだ。だから、彼は最も影響力のある作家となり、現代のロシア人はプーシキン以前の文学をほとんど読むことができない。
プーシキン以前のロシアには、単一の文学的標準がなかった。西欧言語の影響を受けたもの、他のスラブ言語の影響を受けたもの、古代教会スラブ語の影響を受けたものなど、さまざまなスタイルがあった。どの言語をロシア語の手本とするかは、さまざまな議論があった。
プーシキンは、ロシア語よりもずっと早くフランス語に堪能になり、ガリシア語的なロシア語で話したり書いたりしていた。そして、彼の遺産が「標準」となったため、ロシア語の文法はとてもフランス的になった。
また、プーシキンはロシア語の使用域(*)を作り出した。プーシキン以前は、標準的な文語はなかった。ロシアには口語としての方言と、神聖言語としての古代教会スラブ語があった。また、さまざまな使用域を試す多くの作家がいた。 (*)特定の社会的場面で使用される言葉
18世紀のロシアの作家は、古代教会スラヴ語を高貴な言語、方言を低俗な言語と認識していた。そのため、古代教会スラヴ語の語彙や文法構造をできるだけ多く使って、高尚な文章を書こうとした。
プーシキンは違う選択をした。彼は、口語の方言と神聖言語を明確に区別し、方言をベースに文学的なロシア語を作り上げたのだ。口語ロシア語 ≠ 古代教会スラヴ語であり、彼の作品の基礎となったのは口語の方言であった。
古代教会スラブ語の要素は、ロシア語の一定の使用域として維持された。プーシキンが宗教的な文体で詩を書こうとするときは、必ず古代教会スラブ語の文法や語彙を用いた。また、詩を「古風な」テキストに倣って文体化する場合も同様にした。
プーシキンの言語が標準ロシア語となったことで、彼の作った使用域が統一されるようになった。現代ロシア人は古代教会スラブ語の単語や文法構造を耳にすると「宗教的」「古風」と感じる。そのため、歴史小説には多用される。
現代ロシア人は、古代教会スラブ語の一節を聞くと「過ぎ去った時代の言葉」として認識する。それは歴史的には正しくないかもしれない。実際には、古代教会スラブ語は話し言葉ではなかった。プーシキンがそう決めたから、我々はそれを「古い話し言葉」と認識するのだ。
プーシキンがロシア語に与えた影響は、方言分岐の過程を示している。以前は多くの方言があり、多くの作家がその中から文学的な言語を作り出そうとしていた。しかし、中央集権的な国家では、たった一つの言語が標準となるのだ。
国家は一つのモデルを選択し、それを押し付け、他のすべてのバリエーションを駆逐する。印刷されていない地方の方言であれば、このプロセスはスムーズに進む。印刷された方言の場合は、より問題が発生する。だが、本当に問題なのは、誰かが代替案を作り出したときだ。
それが、タラス・シェフチェンコの政治的な重要性である。ロシア、ウクライナ、ベラルーシには、まったく異なる方言が大量にあった。もしロシアが統一を図ろうとすれば、プーシキンを手本にすることになる。シェフチェンコは、それに代わるものを作ってしまったのだ。
この代替案は、単に言語的、文化的なものだけではなかった。それは政治的な意味も帯びていた。プーシキンはロシア帝国の伝統を支持した。シェフチェンコはそれを拒否した。この二人の作家のロシア帝国主義に対する態度を考えてみよう。
" 私は英雄たるあなたについて歌おう
ああ、コーカサスの災い、コトリャレフスキーよ
君の征くところ嵐のように吹き荒れ
黒死病のような君の進撃
あまたの部族を粉砕し滅ぼした
プーシキンは、ロシア帝国主義のアイデンティティを自分のものと受け入れていた。彼はロシア帝国主義を全面的に支持し、それに対する批判は彼を刺激した。1830年のポーランドの反乱を支持したフランスの政治家に対する彼の詩「ロシアを中傷する者たちへ」を見てみよう
参考:プーシキンの「ロシアを中傷する者たちへ」の翻訳
プーシキンの遺産は、ロシアで最も重要なミームだ。トルストイやドストエフスキーの著作は、エッジの効いた反主流論になりうる。プーシキンの著作は、客観的な真実だ。ロシアのスター、ベズルコフがプーシキンを暗唱し、現在のZ戦争を正当化する様をご覧あれ。
プーシキンがロシアの軍国主義を賛美したのに対し、シェフチェンコはそれを批判した。ロシアの征服に抗う山岳民に共感し、ロシア人徴集兵の犠牲を嘆いた。プーシキンにとって人間の不幸は何の意味も持たなかったが、シェフチェンコにとっては非常に重要なことだった。
シェフチェンコの詩のいくつかは、プーシキンへの皮肉に聞こえる。プーシキンの詩がミツキェヴィチに対する皮肉であったのと同じように。この3人の詩人は、同じ議論好きのネットワークで活動しながらも、まったく異なる政治的な見解を持っていたのだ。
この二人の政治的立場の違いは何によって決められたのだろうか。ミツキェヴィチとシェフチェンコがロシア帝国主義を批判したのは、彼らが敗戦文化圏に属し、弾圧されたからだと考える者もいるだろう。しかし、私は、根はもっと深いところにあると考える。
ウクライナがロシアと異なるのは、使用する方言だけでない。東ウクライナは17世紀にロシアの支配下に入ったが、ロシアへの統合は18世紀末のエカテリーナ2世の時代から始まった。したがって、ロシア人とウクライナ人のミームは異なる進化を遂げた。
ロシアとウクライナの文化の違いには、個人の主体性、個人の尊厳、集団行動に対する理解の違いがある。ロシアでは、これらの考え方は、何世紀にもわたってロシア国家によって徹底的に排除されてきた。ウクライナでは、その時間ははるかに短かったのだ。
国家レベルでの違いは特に顕著だ。17世紀半ばにウクライナのヘーチマン国家がロシアとの統一を決めたとき、ウクライナ人は必要条件をリストアップした。ロシア皇帝は、彼らの権利と特権を維持することを誓わなければならなかった。もちろん、皇帝はそれを拒否した。
ウクライナの政治的思考は立憲的だ。我々はあなたを皇帝として受け入れることに同意する。しかし、我々の権利を維持することに同意しなければならない。権力は条件付きだ。それはウクライナにとって普通のことだったが、無条件の権力を求めるモスクワには拒否された。
この点でロシア国家は1654年以降、変わっていない。プーチンの副官キリエンコが2017年に語ったように、「ロシア国家は条約に基づくものではない」。条約はツァーリの権力を抑制し縛りを与える。それは不名誉なことだ。だから彼は機会を見つけては条約を破棄する。
表面的には、文化の違いはもっと顕著かもしれない。次のことを考えてみよう:ウクライナ人は歴史的に司祭を選挙で選んだ。ロシア人はそうしなかった。これは非常に重要なことだ。1900年まで、教会は文化的インフラの主要な要素であった。
多くの人々は神父が提供する文化的コンテンツ以外、ほとんど、あるいは全く消費しなかった。教会は大衆のためにコンテンツを選び、検閲し、配信していた。この意味で、教会は今日のソーシャルメディアのように非常に重要な存在だった。教会はかつてTikTokだったのだ。
ロシア人にはこのようなチャンスはなかった。ロシア国家には個人の主体性、集団行動、政治参加の形態を絶滅させるための、より多くの時間と機会があった。遅れて征服され、さらに後から帝国に統合されたウクライナよりも。
さらに重要なことは、ロシア国家がロシアにおける人間の尊厳の観念を破壊したことである。ロシア人は、自分たちには何の尊厳もないという考えを内面化した。彼らの尊厳、重要性、自己価値は、帝国に属する(=服従する)ことで初めて導き出されるのである。
プーシキンがロシア支配の利点をどのように宣伝したか見てみよう。
"
服従せよ、チェルケス!西も東も
やがてお前と運命を共にすることになるだろう
そのときが来れば、お前は横柄にこう言うだろう
私は天下の皇帝様の奴隷だ!
シェフチェンコがプーシキンを容赦なく嘲笑したのも無理はない。ウクライナの文化的ミームの持ち主にとって、ロシアのミームは、人間の文化というより、ゾンビの信条のようで、絶対に受け付けなかった。シェフチェンコにとってロシア帝国は破壊されるべき悪だったのだ
>>ロシアの生放送中にNOWarとプラカードを出したディレクターが、自分の動画で視聴者をゾンビ化してきたことを謝罪していたな。最初の訳ではちゃんとゾンビ化と訳してあって、それを読んだとき、表現として?でした。
日本だと、痴呆化させてきたとか、偏向報道とか、フェイクニュースというはず。ゾンビ化という言い方はしないと思ったからね。 ロシア人視聴者というコースで見直すと、確かに自分には尊厳がないという考えを内面化したロシア人に向かっては、そういうのが正しいのだろう。
その逆も然りで、ロシアの文化的ミームの信奉者にとっては、シェフチェンコは死すべき敵であった。彼は、政治的、文化的、言語的なウクライナのミームを表現していた。ウクライナのミームは破壊され、ロシアの文化標準がウクライナ全土に押し付けられるべきであった。
文化の均一化、それがZ戦争の真の目的だ。古代の聖なる共同体の方言の分岐を、全員がロシア人になる方向へ誘導することだ。ウクライナの問題は、その方言がいまだ存在することにある。これが、ロシア文化に深く埋め込まれている観点だ。 (スレッド終了)
>>なるほどねぇ。
読んでいてふと思うのは、ロシアに詳しい佐藤優氏がこういう解説をしているのかどうかということ。こういう解説をしていたかなと。 むしろ日本政府がウクライナに援助したことを批判していたくらいだしね。
あと、ウクライナの腐敗・汚職・売春などの犯罪の巣窟のような俗世の話は、戦争後には聞こえなくなってしまったなぁ。ウクライナの方がよほど立憲的、モスクワに条件をだし、契約をしようとする態度とは、相容れないわな。まあ、ロシアによる間接侵略で腐敗させてきたのだろう。それがゼレンスキーによる
まるで日本に間接侵略する中国みたいなものだわな。