1995年の3月20日 地下鉄サリン事件の日

同じ地下鉄に乗っていた、当時は研修医だった方が、

自身も吸ってしまったとか。

本人インタビューで、初めて知ったわい。

サリンとわかるまでは、大変やな。

サリンが瞳孔収縮し、暗くなってしまうのだね。

しかし、副作用がほぼない?というのは、運が良かったのか。

呼吸ができなくなった人が、みな亡くなっており、

障害が残っている人は一時呼吸困難になった人だったとな。

 

正しい知識が必要だとおっしゃる。

 

>>ワイも個室に入院したことがあるが、温度差がない環境にとにかく生きた実感がしなかったな。水もぬるいし、空調も寒暖がない。温度差がなさ過ぎて、気持ち悪かったな。すぐ退院したけど、請求額が高くてびっくり。わざと個室に入れやがったなと。

 

飯尾@tzYbHjEbLvnRi9w·3月20日
地下鉄サリン事件
①患者を受け入れた聖路加国際病院
サリン中毒だと推測して聖路加に伝えた各地の医師
③赤字でもPAMを作り続けた住友製薬
④備蓄のPAMを放出した自衛隊
⑤新幹線沿いの在庫をかき集めてPAMを運んだ薬品卸業者
1つでも欠けていたら、死者数も桁が違っていたんだろうと思います


東京大空襲で十分な救助活動ができなかったことへの後悔があった日野原氏が、院長就任の交換条件として廊下に酸素供給の配管、さらにそれを礼拝堂にも設置し、すぐに病室に転用できるように求めていたことが功を奏した


>長野県で速報中継を見ていた信州大学医学部付属病院の柳澤信夫医師は、聖路加国際病院に対しサリン中毒を強く疑う情報や資料を伝えた。同様の提言は、現場の医師からもあがっていた。


>解毒剤となるPAM(有機リン系薬剤中毒の中和剤)は、ほとんど使うことがない薬なので作れば作るほど赤字になります。しかし住友製薬は、住友化学有機リン系農薬を作っているため、解毒剤のPAMを作るのはグループ会社の義務だと赤字覚悟で作っていました。
https://marushin-house.co.jp/column/detail0067.html

④ 

陸上自衛隊衛生補給処からもPAM2,800セットが送られた。


サリンの解毒にあたり「PAM」という薬剤が使用されましたが、被害者の治療に充分な量が都内にありませんでした。そこで各地から「PAM」を集めることになり、東海道新幹線「こだま」を使って各駅で「PAM」を受領。東京へ運ぶという対応が行われています。

思いのほか反応が多いので補足を 大前提なので書いていませんでしたが、これ以外にも、鉄道会社の職員や救命にあたった医師や看護師などの医療従事者、そのほか多くの方の尽力があり、被害は軽減されました 携わった全ての方に敬意を表するとともに、亡くなった方に哀悼の意を表します

>>イラク戦争と同じ日?

 

 

地下鉄サリン事件から22年 治療に当たった医師たちの秘話

 1995年3月20日に起きた「地下鉄サリン事件。死者13人、負傷者約6200人の犠牲者を出したこの事件で、オウム真理教が東京の地下鉄で撒き散らした毒物「サリン」に世間の注目は集まった。

 サリンはイラン・イラク戦争で使われるなど、大量殺戮を目的に開発された化学兵器だが、実は事件の約2ヶ月前、1月1日の読売新聞一面に「サリン残留物を検出 山梨の山ろく」という記事が掲載されていた。オウム真理教の拠点である上九一色村で、94年6月に起きた松本サリン事件の残留物と同じ成分が発見されていたのだ。オウムに対し、すぐに強制捜査が入ると思われたものの、直後に阪神淡路大震災が起こり、日本中が浮き立つ中、地下鉄サリン事件が発生してしまったのだった。

 当時、2000人近い負傷者を出した築地駅に近い聖路加国際病院では、スタッフが被害者の命を救うべき総力戦を展開していた。当時院長だった日野原重明氏はこの緊急事態に、一般外来の診療と、予定していた手術の中止を決断、被害者の全面受け入れを指示した。

 拝堂の壁の配管に人工呼吸器を取り付け、点滴台と毛布を運び込むと、そこは広い病室へと変わった。東京大空襲で十分な救助活動ができなかったことへの後悔があった日野原氏が、院長就任の交換条件として廊下に酸素供給の配管、さらにそれを礼拝堂にも設置し、すぐに病室に転用できるように求めていたことが功を奏したのだった。

 事件現場からおよそ200km離れていた長野県で速報中継を見ていた信州大学医学部付属病院の柳澤信夫医師は、聖路加国際病院に対しサリン中毒を強く疑う情報や資料を伝えた。同様の提言は、現場の医師からもあがっていた。現在、横浜クリニック院長で、事件当日は自衛隊医官として聖路加病院に緊急派遣されていた青木晃医師は、瞳孔が極端に小さくなる"縮瞳"の症状をみて「これはサリンだ。この場合の特効薬はアトロピン、もしくはパムだ」と報告した。

 パムは、サリンなどの有機リン中毒の治療のために有効だが、他の医師たちは使用をためらっていたという青木医師は事件が起こる1週間前、自衛隊衛生学校における特殊武器防護のテストで"サリンにさらされた時の臨床症状を5つ書け。そしてそれに対する初期治療を2つ書け"という問題を解いていたという。

 「5人ほど見ただけで神経系のガスによる中毒症状とすぐにわかりました。1週間前に見た問題が全て当てはまっていた」(青木医師)。

 また、当時の状況について青木医師は「簡易カルテを患者さんが首からぶら下げていて、そこに僕たち医師が症状を書けば済むようになっていた。また日野原院長や副院長が先頭に立って患者さんを重症・中等症・軽症と、トリアージと呼ばれる振り分けをしていた」と振り返った。

 トリアージとはテロ・大災害・大事故など、医療体制が確立していない現場で多数の傷病者が同時に発生した場合に重症度と緊急性を選別し、搬送や治療の優先順位を決めるものだ。テロ対策などの総合教育を提供する一般社団法人・TACMEDAの協議会理事長・照井資規氏は「テロや自然災害は大量の負傷者を同時に発生させるが、治療は1人ずつしか行なえません。そのための選別、順番付けが非常に大事になる。患者一人一人の治療に繋げていくためには非常に大事なツール」と話す。

 聖路加病院には640人が運ばれたが、亡くなったのは1人だけだったという。

 照井氏はテロ・大災害が起きた際にすべき行動として「今一番しなければいけない事を把握すること」と話す。例えば、事件が起きた際に逃げるのではなく、携帯電話で撮影するなどの行為は非常に危険だと指摘。「記録するよりも、まずは逃げないといけない。危機を危機として認識すること。普段から想定外を想定しておくのが大事」と話した。(AbemaTV/AbemaPrimeより)

地下鉄サリン事件、被害に遭った医師はどう行動したか~現場で、搬送先の病院で~勝俣範之・日本医科大学教授

Dr.純子のメディカルサロン (2018/09/21 10:50)

 日本医科大学の勝俣範之教授は、腫瘍内科医として多くの患者さんの信頼を集めています。国立がんセンターから日本医科大学武蔵小杉病院に移り、腫瘍内科を立ち上げた勝俣先生とは、何度も学会やシンポジウムでご一緒したのですが、個人的なお話を聞いたことはありませんでした。
 ですから、勝俣先生があのサリン事件で地下鉄の八丁堀駅構内で被害者の救急処置に当たった後、ご自身もサリンの被害を受け、救急搬送されたことを偶然に知り、本当に驚きました。被害を受けながら、どうして後遺症もなく、今活躍していらっしゃるのか。死と向き合うという体験は、医師としてのキャリアにどう影響したのか。ぜひ知りたいと思い、先生に取材をお願いし、病院を訪ねました。

(文 海原純子

 勝俣先生(右)と筆者

 

 海原 先日サリン事件の実行犯の死刑が執行された時、偶然ネットで先生がサリン事件の被害者だということを知り、衝撃を受けました。被害者であることも衝撃でしたが、その後、PTSD(心的外傷後ストレス障害)にもならず、仕事を続けられるのはどうしてなのか、というのが素朴な疑問でした。

 勝俣 皆がPTSDになるわけではないですからね。

 海原 しかし、あれだけの事件の現場にいたわけですから。これはただ者ではない、話を聞かなくては、と思いました。

 勝俣 いえいえ、普通の人です(笑)。

 1995年3月20日、月曜日。当時、国立がんセンター中央病院のレジデント(研修医)として勤務していた勝俣先生は、日比谷線で築地にある同センターに向かう途中だった。午前8時を過ぎた頃、電車が八丁堀駅で緊急停車し「ホームで人が倒れています。医療関係者はいませんか」という車内放送が流れてきた。勝俣先生はホームに降りた。

 周りでどんどん人が倒れていく

 勝俣 最初、ホームに倒れて口から泡を吹いている人を目にしました。瞳孔を見たら縮瞳していて、てんかんかと思い、そこで、その人を介抱して、心臓マッサージして、人工呼吸をマウスツーマウスでやって。でも、やっている最中に周りでどんどん人が倒れていくんです。

 過激派が何か毒薬でもまいたのかなと思いました。でも、爆発の音もしないし、臭いもしないし、全く分からないのです。しようがないので、その人を介抱して15分ほどして救急隊が到着して、救急隊にお任せしました。

 自分も、しようがない、こんなひどい騒ぎになっているから、電車も止まっているし、歩いて病院まで、朝勤務でしたから、歩いて行こうかなと思って、立とうと思ったら立てないんです。足に力が入らない。手足もしびれてくる。でも、息はできるんです。意識もしっかりしている視界が暗くなる。たぶん瞳孔が縮瞳しているから暗くなるんです。歩けないので、救急車を呼んでくれないかって頼みました。

 海原 そのまま倒れたのですか。

 勝俣 そうです。で、救急車で運ばれました。でも、怖いという印象はないんです。何が起こったのか、さっぱり分からない。たぶん救急車の中でも意識はしっかりしていたし、呼吸もしっかりしていました。たぶん何かの毒物を吸ったに違いないと思ったんです。でも、えらい騒ぎでした。

 僕が乗った電車は八丁堀駅に止まったんです。サリン電車というのは日比谷線築地駅に止まったんです。築地駅にまいたのが林泰男元死刑囚で、一つ前の電車なんですよ。サリンを吸った人が、気持ちが悪くなって八丁堀駅で降りて、そこで倒れたんですね。

 海原 八丁堀駅も大変だったのですね。

 勝俣 八丁堀も相当な人が倒れていました。一番重症な人、泡を吹いていたのはその人だけでした。たぶんサリンの一番近くにいた人なのでしょう。その方は、後で聞いたんですけど、慶応病院に運ばれて亡くなったそうです

 僕は救急車で運ばれて、救急車の中で、どこに運びますかって聞かれたんです。聖路加病院は築地あたりでは救急病院なんですけど、聖路加病院に行っても、たぶん診てくれないだろうと。相当な数の人だからと思ったので、国立がんセンターへ運んでくれと言ったんです。

 海原 話せたのですか。

 勝俣 話せましたよ。意識はしっかりしていて、呼吸もしっかりしていましたから。僕のレジデントの同級生が救急部出身なので、がんセンターに着いたら電話をして、いろいろと調べてもらおうと思いました。

地下鉄日比谷線築地駅前で救急車に運び込まれる被害者(1995年3月20日)


がんセンターに運ばれた中で2番目の重症患者

 海原 そんな状態で、そういうことをよく考えられましたね。

 勝俣 同級生は岐阜の大垣市民病院という有名な救急部にいたのです。大垣市民病院には、急性中毒情報ファイルがあるので、電話をして調べてもらおうと思って。その時、がんセンターには40人が入院していました。通常は一般の人は診ないのですが、緊急事態なので40人が入院しました。その中で、僕が2番目の重症だったのです。

 病院にすぐ着いて、でも意識もあったから、その彼に電話して、大変なことになったから、何か訳の分からない毒物を吸ったに違いないから調べてくれと。これこれ、こういう症状だから調べてくれと。それで調べてもらったんですけど、最初は全く分からなかったみたいです。何かの毒物だろうからということで、何リットルも点滴して強制利尿をして、あとは全身浴。

 海原 縮瞳で視界が暗くなっているのですよね。見えるのですか。

 勝俣 見えます、暗いだけで午後になって、やっとサリンって分かったんです。午前中は分からなかったんです。何が起こったんだろうみたいな。

 海原 手足はしびれたままでしたか。

 勝俣 しびれたままです。ずっとしびれている。入院した時に1回吐きました。気持ちが悪くなって。午後になってサリンって分かったのですけど、サリンって、何もかも全く知識はなかったです。サリン中毒なんて、見たことも聞いたこともないじゃないですか。

 海原 あり得ないことですものね。

 勝俣 前年に松本サリン事件があって、まだオウムって分かっていない時です。松本サリン事件というのがあって、それに使われたのがサリンだということが分かって。信州大学に松本サリン事件の患者さんが入院して、信州大学から大量のファクスが送られてきたんです、がんセンターに。(1メートルくらいの高さを示して)ファクスでこれぐらい。

 海原 解毒の情報ですか。

 勝俣 治療ですねサリンを知ってる人がいないので救急(医療)が得意な医師が集められて、主治医団チームがつくられたんです。主治医と僕と一緒に読んだんです。自分も興味があったので。どうなるか分からないから、怖いから、チームと一緒に読みました。軍部の資料なのです。アメリカ軍とイスラエル軍の。サリンというのは毒ガスですから、ほとんど軍の資料です

 海原 解毒用の薬が分かったのですか。

 勝俣 解毒にはPAM(有機リン系農薬の解毒剤)だということが分かってPAMが日本全国から集められ、重症の人から使っていったのです重症の人は全部、聖路加病院と墨東病院に行っちゃって。がんセンターの僕には(PAMは)回ってこなかった。しようがないので、硫酸アトロピンを使っていました。これは解毒作用はないのですけど、多少効果があるらしくて、持続点滴されたんですあれ、副作用でドキドキするんです。結構きつかったですね。

 注:硫酸アトロピンは、眼科の検査で眼底を検査するときに散瞳させるために使ったり、抗コリン剤として心筋に作用して徐脈改善に使ったりする

 多数の消防車、救急車が集まった地下鉄日比谷線築地駅前(1995年3月20日)


 海原 目は少し見えるようになったのですか。

 勝俣 瞳孔が若干開くんです。

 海原 点滴は何日間ぐらい。

 勝俣 3日間くらいです。

 海原 しびれはどうでした。

 勝俣 しびれは後まで残りました。1カ月ぐらい。瞳孔が縮瞳しているのが1カ月ぐらい、とれなかったです。

 海原 このまま死ぬのでは、と思いませんでしたか。

 勝俣 思いました。遺書を書こうかと思いました。当時、まだ子どもが小さかったから。生まれたばかりだったんです。もしものことがあったら、子どもを頼むと奥さんに言って。
 送られてきた文献の資料を最後まで読み切ったのが翌日ぐらいです。結構時間がかかった。しかも医学の論文や資料でないから、読み慣れないんです。軍の資料だから。軍部だから自分もサリン中毒になる可能性、自分も吸っちゃう可能性がありますよね。サリンを吸ったらどうなるか、みたいなことが書いてあるんです。つまりサリンの治療とか予後ですね。
 サリンって有機リン系で神経ブロックする薬です神経を遮断する薬なので、有機リンと同じ作用なんです有機リンって農薬に入っています。農薬中毒は、僕、研修医の時に救急部でよく見たことがあるんです。農薬中毒も呼吸停止になったりしますけど、後から肺線維症を起こすんです。肺線維症で亡くなる方を結構見たんですね。それが一番怖かったです。
 後遺症として、肺線維症がないかってことをずっと調べたんです。しかし、サリンにはないんですよ。初期にアセチルコリンをブロックし、神経をブロックして呼吸筋をまひさせる薬です。一度に大量のサリンを吸って、呼吸停止、呼吸器をまひさせて呼吸器を遮断する。まひさせて、それで窒息死させるというのがサリンの毒なんです。

 海原 最初の呼吸まひを逃れて生き延びると大丈夫なのですか。

 勝俣 そうなんです。それが分かったんです。医学的な後遺症は、PTSDとかはありますけど、それ以外は起こらない。器質的な後遺症はない。助かったと思いました。
 PTSDを食い止めたのは正確な知識

 海原 すごいですね。それは学問的勝利じゃないですか

 勝俣 そうなんです。でも、読むのが大変でした。必死で読みました。

 海原 すごいです。

 勝俣 自分は初期に呼吸器まひがなかったので、助かったと思いました。だから遺書を書くのをやめたんです。

 海原 そんな経験をする医師はいないです。

 勝俣 サリンコリンエステラーゼの値が下がるんですね。入院している間、40IU/Lぐらいになりました。40っていうと、かなり重症な方で、がんセンターに入った一番重症な人が20IU/LぐらいでICU(集中治療室)に入ったんです。僕は2番目に低かった。2番目に重症。ICUの人も助かりましたけどね。
 呼吸筋がまひして呼吸停止にならなければ、まず大丈夫なんですサリンで11人が亡くなったんですけど、亡くなった人はみんな呼吸まひが起こった方です。今でも後遺症がある方は、いったん呼吸停止までいった方ですね。本当は、コリンエステラーゼが回復するまで、もう少し入院してって言われたんですけど、もう病院にいるのが嫌で嫌で。
 注:コリンエステラーゼ正常値は234-493IU/L

 海原 そうでしょうね。

 勝俣 病院にいるのが怖かった、個室に入っていたから。そのがんセンターの個室は、僕が何人も見送った患者さんの個室だったから。やっぱり怖いですよね。寝ていると天井しか見ないわけですよ。真っ暗な天井を見ながら、怖くなりますよね。患者さんもこんな怖い思いを毎日毎日しているのかと思うと、すごく怖くなって、あまり眠れないし。患者さんの怖くて寂しい気持ちがよく分かりました。


  ステージ上でギターを弾く勝俣先生(中央)と、先生の患者で大腸がんサバイバーの伊藤茂利さん(右)。左はミュージシャンの中村里美さん=「いのちの音色LIVE」にて

 海原 そうした体験、医師として、まずできないかもしれないです。

 勝俣 なかなかできないでしょうね。僕も生まれて初めて入院というものをしました。

 海原 初めての入院がサリンは嫌ですよね。

 勝俣 本当に怖くて嫌でした、病院にいるというのが。病院って陰気ですしね

 海原 入って来るだけで何か暗いですよね。

 勝俣 楽しいことがないですよね。楽しくないし、変な臭いもするし。僕は退院したいと言って、5日目に退院しました

 海原 5日目ってすごくないですか。2番目の重症患者で、しびれもあるのに。

 勝俣 まだちょっと(視界が)暗いんですけどね。しびれも残っている。でも、もう病院なんかいたくないと思って。自宅療養を2週間ぐらいして、やっと目が少しましになってきて、しびれも少しましになったからってことで、復帰しました。家にいても暇ですから。もう仕事できるよなと思ったから。

 海原 でも、サリンのことってみんな知らないし、後の症状って分からないから、例えばまたしびれがこないかとか、そういうことはあまり考えなかったのですか。

 勝俣 文献を全部読んだ知識があるので。大丈夫ということが分かりましたから。中には、しびれがあったり、目が少し暗いのがずっと続いている人はいるようなんですけど。

 海原 日常生活にはそんなに支障がないみたいですね。

 勝俣 ほとんどないです。

 海原 やっぱり、しっかり知識を持つって大事ですね。

 勝俣 知識って大事です。ただ怖い怖いと、イメージだけあると、それで精神的に参ってしまうかもしれません。僕は論文を全部読んで、絶対大丈夫ということが分かって。

 海原 正確な知識が裏付けになるんですね。

 勝俣 本当はもっと休めとも言われました。勤務に出てきた時に大丈夫かとか、後遺症はないのかとか、散々みんなに言われましたけど、うちで一人でいても、暇でしようがなかったですから。社会から取り残されたっていう意識もありました。社会から取り残されて、自分は何も社会に貢献していない、それはやっぱりつまらないですよ。逆につらいです。

 海原 全部、先生のその後の仕事に生かされていますね。音楽活動はいつからなんですか。

 勝俣 音楽は学生の時からフォークソングをやっていて。最近また始めたんです。私の患者さんに詩を書いてくれる人がいて。いい詩を書いてくれるんですよ。がんサバイバーの方ですけど。私が曲を付けて。意外といい音楽ができたんです。

 海原 9月に横浜でライブをなさるんですね。これもミュージシャンの患者さんとご一緒ですね。先生の患者さん、皆さん明るくて、すごいですね。

 勝俣 そうですね。どちらかというと患者さんからパワーをもらえます。患者さんのパワーの方がすごいです。
 取材後記
 取材をしながら勝俣先生は「選ばれた人なのだ」と感じた。死と向き合うことは医師として究極の体験だと思う。そうした体験をするように選ばれた医師であり、そこから学ぶことができる医師であり、そのことを、後に苦しむ人の手助けにできる医師なのだと思った。
 全く未知の毒物に対する対抗手段は、正確な情報と知識だ。そして、分からない事への不安を共に分かち、支え合い、未知を正確な情報で埋めていく作業が身体と心を支える。
 患者さんを少しでも社会参加できるようにすることは大事だ。勝俣先生は、闘病を人生の全てにせず、楽しみをつくり出しながら、音楽などで気持ちを表現する場を患者さんとともにつくる活動をしている。腫瘍内科医としての、そうした活動の素晴らしさの原点が、この大変な体験にあるように感じた。
 日本医科大学武蔵小杉病院の腫瘍内科外来のドアには、勝俣先生の似顔絵が貼ってある。外来のドアに教授の似顔絵が貼ってある大学病院は、私はここ以外に知らない。海原純子
 勝俣範之(かつまた・のりゆき)
 山梨県富士吉田市生まれ。1988年富山医科薬科大学医学部卒業。国立がんセンター中央病院内科勤務を経て2004年ハーバード大学生物統計学教室に留学。ダナファーバーがん研究所、ECOGデータセンターで研修後、国立がんセンター医長。11年10月から日本医科大学武蔵小杉病院腫瘍内科教授。

 

>>初めて知ったわ。